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●別海の宿泊所に到着…楠瀬志保さんの「講演」を聞く
なんとか別海町の宿泊場所に到着し、温泉に入ったあと、18時半から1994年リメハンメル冬季五輪と1998年長野五輪の2大会連続で出場した、楠瀬志保さん(現在はご結婚されて森野志保さん)の「講演」を聞きました。マラソン同好会の会長さんが楠瀬さんと個人的に面識があるそうで、今回、地元の別海町に戻って、地元のスポーツ活動などの仕事をされている楠瀬さんにお願いして、今回の講演をお願いした次第。初めての別海駅伝参加で、楠瀬さんの話を聞くことができるなんて、夢のようです。
楠瀬さんの小さい頃、スパルタ的に父親からいろいろとスケートなどの指導を受けた。小さい頃は非常にイヤな存在。でも、親からはあれすれ、これすれとは言われず、好きなことをさせてもらえたそうです。(私もそうでした。ほんとに親には感謝しています)
中学のとき、管内(根室)の大会で100mハードルに優勝。しかし、そんなに努力もせず、練習も母親が隠れて見ていたとき、ハードルを使っての練習を一度もせず、帰ってから、お母さんから「どんな練習をしているの?」と聞かれ、「軽く5台くらい飛ぶ練習をした」とウソを言って、すごく叱られてしまい、家出をする。家出と言っても、物置に隠れていたものの、親は気づかず、そうこうしているうち、気温が下がり寒くなり、じっとしているわけにもいかず、中学のグランドに行くと、ハードルが置いてあって、飛ぶ練習をしていたら、4台目までは3歩で飛べるけど、5台目には3歩で行けない…そうこうしているうちに、父親が練習している様子を見ていて、こう飛べば5台目まで3歩で飛べる、とアドバイスを受け、そのとおりに飛んだところ、すぐに5台目も3歩で飛べるようになった。そして、次は6台目も3歩で…とやっていくうちに、ついに10台目まで全部3歩で飛べるようになり、2秒もタイムを縮めることができ、頑張れば数字として結果が出る、という面白さがわかったそうです。
このあと、自分がどのスポーツをやっていこうか、と悩んだとき、スケートにした理由は、個人種目で自分が頑張れば、頑張るだけ、記録として残ること、また、スケートは寒くて厳しいスポーツだけに、夏は球技、冬はスケートのかけもちでスポーツをやっていて、高校進学のときにはスケートを避けて、球技を選んでしまう人が非常に多いということもあり、それほど多くの人がやっていないこと。また、体格的には日本人は負けていても、日本のスケートが世界レベルなのは、技術的に優れていること。だから、努力して頑張っていけば、スケートなら世界のトップになれるかもしれない、という「淡い希望」を持ったそうです。でも、その選択は大正解ですよね。やはり、大勢がやっていることでの一番になるのはちょっとやそっと頑張ってもまず無理ですが、「マイナー」なことなら、頑張り次第では一番になれる可能性があるわけで、目のつけ所が良かったと思います。
そのあと、高校進学して最初はビリだったものの、トップを目指して橋本聖子さんの母校である駒大苫小牧高に入り、練習もつらいとは思うこともなく、一生懸命やっていき、高校3年のときにはジュニア世界選手権の日本代表に選ばれ、1000mで1位。表彰台に立ったとき、両端(2位、3位の選手)は非常に大きな選手で、まるで長野五輪の清水選手状態。こういう経験をもう一度味わいたい、ということで、日本体育大学に進学。1、2年のときは日本のトップチームに選ばれたものの、3年のときは遊んでしまい、トップチームから漏れ、後輩にも抜かれ、その後輩は1992年アルベールビル五輪代表に選ばれ、楠瀬さんは五輪代表漏れ。五輪中継をテレビで見ているとき、後輩を素直に応援することができなかったそうです。
で、なんとかオリンピックに出たい、という強い気持ちを持って、佐田建設に入社。シーズン前には体脂肪率も入社時の22%から13%に落ち、スクワットもバーベルを持っての屈伸を80kgくらいから130kgまでできるようになり、また、太股周りが53cmから5cm太くなり58cmに。これだけ数字が伸びると、シーズンに入り、スタートラインに立ったときの気持ちは昨年とは大違い。すごく自信を持つことができたそうです。
橋本聖子さんの日本選手権10連覇を楠瀬さんが阻止して初優勝。そして、念願のアルベールビル五輪代表に選ばれました。しかし、五輪が始まり、大勢の方の祝電を選手村で見ているうちに、メダル、メダル、頑張れ、頑張れ…そういう内容ばかりで、具合が悪くなり、吐き気がしたそうです。そして、どんどん精神的にまいってきて、失敗してしまう、どうしよう…と悪いことばかり考えるようになってしまったそうです。
で、最初に男子500mがあり、堀井選手、清水選手など金メダル間違いなしの周囲の声がありながら、楠瀬さんはスタートのとき、約1万の観客がシーンと静まりかえった状態でみんなスタートする選手に注目している…スタートで震えている選手もいれば、いつもダイナミックなスケーティングをしている選手も足を細かく動かして、いつもの滑りが全くできない状況を目の当たりにしたそうです。
で、ついに自分が滑る日になり、最初の種目は500m。1時間前からウォーミングアップをしているのに、10分前にリンクの上に上がったときには、足もとが寒くなってしまった。スタートラインに立ったときには静止しないといけないのに、ブルブル震えてしまい、1度フライングをとられてしまった。次にフライングすると失格となってしまうため、とにかく手が動かないようにしようと、脇をしめた状態でスタート。スタートしてから自分がどんな走りをしたか、全く覚えていなかった…。1500mも消極的なレースをしてしまい、悔いを残してしまった。得意の1000mもスタートのときはブルブル震えて、フライングを1度してしまい、結果的には3位と0.15秒差の6位。0.15秒差は精神的にしっかりして走った選手とブルブル震えて走った選手との差と受け止めたそうです。
本当は五輪が終わって、スケートを引退するつもりが、この結果でやめるにやめることができなくなり、現役続行。五輪の次の年、W杯で2勝。しかし、これが五輪の舞台ならまたブルブル震えて、こんな結果は出ないだろう。でも、なんとか五輪に出ていい結果を出したい、という強い気持ちを持って、頑張ってきたのですが、長野五輪の前年、スラップスケートの登場で、楠瀬さんもなかなか新しい靴になじむことができず、また、五輪直前のレースでは靴が壊れるアクシデントがあり、思うような結果が出ないまま、五輪本番を迎えることに。
長野五輪では、清水選手が念願の金メダルを獲得。これで日本選手団も勢いに乗り、女子500mも1日に岡崎選手、島崎選手が3、4位につけて、メダル圏内に。楠瀬選手は日本選手では一番悪い順位のため、2日目は日本選手の中では最初に滑ることになり、岡崎選手、島崎選手を勢いづける斬り込み隊長的役割という気持ちで滑ったところ、前の五輪でスタートラインに立ったときの震えはなく、ほとんどの日本人が自分に対しての声援で勇気づけられ、それが背中を押してくれた感じで走り、ゴールした結果は自己新記録。私もそのとき生で見ていましたが、順位はともかく、大舞台、オリンピックで自己記録を出すことができるなんて、すごい精神力だな、と思いました。我々には想像もつかないいろんな苦しみ、挫折を味わい、そしてメダルこそ獲得はできなかったものの、「悔いはなかった」という話どおり、自分の力を出し切った、すがすがしさがありました。ほんとにそういう選手を見ると素敵ですし、非常に勇気づけられます。そういう選手の話を聞くだけで感動モノです。
奇しくも、今日の北海道新聞で、釧路でスケート五輪代表の白幡圭史さんと三宮恵利子さんが特別講師となって強化合宿をしている、という記事を見かけました。三宮さんは今年のソルトレークシティ五輪で、期待されながらも自分の力を出し切ることができず、五輪後に引退。いったんはスケート界から身を引くつもりだったのですが、こういう苦い経験をほかの選手に味わせたくない、という気持ちで、自分のできることをやっていこうと、こういう合宿の講師などを精力的にしています。
改めて思うこととして、スポーツは結果がすべての世界。しかし、やっている本人にとっては、いろんな努力をしているわけで、結果がでないことに対しては、当事者でない立場の者にとっては、何も言う資格はないんですよね。結果がでなかった理由は本人が一番よくわかっていること。オリンピックの場合、日本は特にメダル、メダルばかり注目しているけど、スポーツはオリンピックだけがすべてじゃないんですね。もちろん、世界中が注目している大会で一番になれば最高ですが、決してそれだけじゃない。また、五輪が終わっても、その選手の人生はこれからまだまだ先があるわけで、五輪はあくまで人生にとっては「通過点」にしか過ぎないわけです。
楠瀬さんはスポーツを通じていろんな人を指導して、その人ができたときに味わう「感動」をいっしょに味わうことができることに対して、非常に喜びをもっているとのこと。
スポーツだけでなく、自分がやってきたことで、人に感動を与えることができたときって、ほんとに「自分がやってきたことは無駄じゃなかった」と思えるし、これからどんどん頑張っていこう、と逆に元気を与えてくれる感じですよね。
自分は小さい頃からスポーツは何でも好きで、今では野球、サッカー、スキージャンプなど観戦・応援したり、そして自分自身でもマラソンに参加しているので、スポーツ無しでは自分の人生もあり得ない状況になってます。ほんとに、自分のやってきていることが、少しでもいろんな人の力になっていければ…と、思う今日この頃です。
あとで、調べたんですけど、楠瀬さんは私と同じ生まれ年(昭和44年生)でした(^^)。(2002.9.25提供)
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