2002年9月22日(日)・その2


旧標津線代替路線バス、標茶→中標津編
標茶から別海(別海温泉)へは、北海道フリーきっぷを持っての旅行なら、JR釧網本線で東釧路まで行き、JR花咲線(根室本線)で厚床まで行き、厚床から中標津行のバスに乗った方が、バス代があまりかからないので、普通はこのルートで行くのですが、別海には西春別の別海駐屯地に丸形ポストがあるので、西春別に寄り道して、中標津経由で別海温泉へ行くことにしました。


12:50

標茶駅前から標津行のバスに乗る。車内で40円22枚綴り800円、10円22枚綴り200円の回数券を買ったのですが、回数券は1券種4枚までしか使うことができないため、回数券での利用は私の買った手持ち分としては200円分しかできないことに(^^;。
13:00 標茶〜標津間のバスはJR旧標津線の代替路線ということで、走っている道路もおおむねJR路線のあったところを走る。でも、西春別まではほとんど利用されない区間を走ってましたね。
途中、標茶町と別海町の境界手前の牧場で、牛がズラッと並んで歩いていて、先頭は牧場の方が導いている光景を見て驚きでした。こういう光景を見ると、道路標識に「牛横断注意」があったり、歩道にフンがあちこちあったりするのは納得ですね(^^;。
13:30 西春別バス停で降りる(運賃960円)。
13:38 西春別駅前郵便局の局舎を撮影する。局舎の左側にはサイロの絵が入っています。JRの駅は無くなりましたが、地名が「西春別駅前」なので、そのまま郵便局名として残っています。また、北海道では数少ない集配局の「駅前」局です(ほかには登別駅前局、豊頃駅前局が有り)。
13:43 西春別バス停に戻り、旧標津線西春別駅の跡地を利用した、別海鉄道記念館に行き、さらりと旧標津線関連の品を見学する。
で、標津線の記事が載っている雑誌のとなりのページがふるさと切手「北のロマン・花木」の原画作者、袴田さんのコメントが載った記事があり、そちらをじっくり見てしまいました。郵政からは「花びらの枚数は正確に描くように」などと注文されたそうです。で、4枚の花切手のうち、袴田さんがお気に入りなのはナナカマドだそうです。手紙を出すときはもちろん、自分原画の切手を使うそうで、値上げになった80円でも再登場して、きっとまた自分の原画切手1枚貼りの手紙を出すことができる、と大喜びだったんじゃないでしょうか…。でも案外、62円の手持ちがたくさんあって、テントウムシ18円切手を加貼して今でも手紙を出してたりして…。なんて、想像してしまったりします(^^;。うーむ、鉄道記念館と全く関係ない話になってしまった。
見学のあと、スタンプを押す。同じ図柄ですが、2つ用意していて、赤用と黒用の2パターンで押すことができます。
このあと、標津行バスが15時ちょうど発なので、それまで荷物を記念館内に置かせてもらい、身軽な状態になる。
13:58 西別海町鉄道記念公園にあるSL「D51−27」を撮影する。SL前にあった説明によると、第2次世界大戦後、ソ連に対しての戦後補償のため、日本からサハリン(樺太)に輸出されたもので、昭和24年、三菱重工業製造とのこと。それを購入したもので、日本にはこの1機しか現存していないそうです。

 

 
14:00 このあと、SLの北側に別海町内にあった旧標津線駅の駅名標と、そして西春別駅については、「ホーム」が作られ、標津線が廃止になる前まで走っていたキハ22−239の車両と駅名標を撮影する。キハ22はちゃんと「JR」のロゴが車体に入っています。
なお、泉川−光進−西春別−上春別の4駅は標茶〜中標津間の駅、春別−平糸−別海の3駅は厚床〜中標津間の駅です。
14:09 このあと、西春別バス停から約2km離れている別海駐屯地に行く。駐屯地内には丸形ポストがあるので撮影するために向かうが、昨年、北海道郵政局が発表したリストの中では月〜金曜の9〜16時の間のみ撮影可ということになっていたけど、日曜でも駐屯地の入口には自衛隊員がいないわけがないし、身分証明書(運転免許証+職員証)を提示すれば、なんとか可能だろう…ということで、ダメもとで行ってみる。
14:13 駐屯地に行く途中、牧場で小型の馬がいたので、デジカメでパチリ。
14:20 陸上自衛隊別海駐屯地に到着。入口で自衛隊員の方に運転免許証と職員証を提示し、「丸形ポストを撮影したいのですが」とお願いしたところ、隊員さんの付き添いのもとで撮影OKとなりました。隊員さんのひとりが、「地元の小学校の児童が清掃してくれて、ポストの文字まで真っ赤っかにしてくれてますよ。確か北海道で丸形のポストは133個あるそうですね」とおしゃっていました。よくご存じですよね(^^)。でも、さすがに「実は、ひとつ新発見があったんですよ」とは言えませんでした(^^;。
14:25 駐屯地入口から約200m進んだところに、公衆電話ボックスとともに丸形ポストが置いてあり、デジカメ撮影する。別海の駅伝参加で、同じ町内の丸形ポスト撮影できて、ほんとによかったです(この撮影のために、駅伝参加した…わけではありませんよ(^^;)。
14:31 別海駐屯地をあとにし、急いで西春別バス停に走って戻る。牛をデジカメ撮影したり、「牛横断注意」の標識撮影をする。「牛横断注意」標識の牛は2パターンあったりします(^^;。
14:42 西春別バス停に戻るが、まだ昼食をとってないため、ここから500mくらい行ったところにある国道243号線沿いのセブン−イレブンに向かう。
14:50 セブン−イレブン西春別店で助六寿司とペットボトルのコーヒー飲料を買う。
15:00 西春別バス停から阿寒バス・標津行バスに乗る。
15:42 中標津バスターミナルで降りる(運賃910円)。そのあとしばらくはバスターミナルの待合室でノートパソコンを使い、HP更新作業をする。
16:35 中標津郵便局に寄り、局舎撮影をしたところ、ゆうゆう窓口は16時までの営業時間。中標津に着いてすぐに局へ行けば、風景印も押せたかもしれませんね(^^;。
16:55 中標津バスターミナルから根室交通・厚床行バスに乗る。
17:40 別海温泉バス停で降りる(運賃820円)。
17:45 別海温泉「別海温泉ホテル」に行ったところ、予約は入っていないとのこと。で、ホテルの方いわく「『こうらくえん』のことかな」…ほんとに、私は頭が真っ白になりました…。で、『こうらくえん』の電話番号を教えてもらい、電話で確認したところ、間違いなくここでの宿泊でした。場所を教えてもらおうとしたら、送っていただけるとのこと。私がクルマじゃないので、ご厚意に甘えて、乗せていただきました。
18:00 別海ふれあい温泉・別海交流センター「郊楽苑」に無事到着。別海温泉ホテルの方には丁重なお詫びと大きな感謝の言葉をかけました。本当にありがとうございました。
18:05 別海18時半からスピードスケートでリメハンメルと長野、2度のオリンピックに出場した、別海町出身の楠瀬志保さんの講演があるため、急いで温泉に入る。温泉に入って非常に気持ちよかったとともに、無事に到着できてホッとしました(^^;。


ほんとになんとか目的地に到着できて、よかったです(^^;;;。(2002.9.25提供)


別海の宿泊所に到着…楠瀬志保さんの「講演」を聞く
なんとか別海町の宿泊場所に到着し、温泉に入ったあと、18時半から1994年リメハンメル冬季五輪と1998年長野五輪の2大会連続で出場した、楠瀬志保さん(現在はご結婚されて森野志保さん)の「講演」を聞きました。マラソン同好会の会長さんが楠瀬さんと個人的に面識があるそうで、今回、地元の別海町に戻って、地元のスポーツ活動などの仕事をされている楠瀬さんにお願いして、今回の講演をお願いした次第。初めての別海駅伝参加で、楠瀬さんの話を聞くことができるなんて、夢のようです。
楠瀬さんの小さい頃、スパルタ的に父親からいろいろとスケートなどの指導を受けた。小さい頃は非常にイヤな存在。でも、親からはあれすれ、これすれとは言われず、好きなことをさせてもらえたそうです。(私もそうでした。ほんとに親には感謝しています)
中学のとき、管内(根室)の大会で100mハードルに優勝。しかし、そんなに努力もせず、練習も母親が隠れて見ていたとき、ハードルを使っての練習を一度もせず、帰ってから、お母さんから「どんな練習をしているの?」と聞かれ、「軽く5台くらい飛ぶ練習をした」とウソを言って、すごく叱られてしまい、家出をする。家出と言っても、物置に隠れていたものの、親は気づかず、そうこうしているうち、気温が下がり寒くなり、じっとしているわけにもいかず、中学のグランドに行くと、ハードルが置いてあって、飛ぶ練習をしていたら、4台目までは3歩で飛べるけど、5台目には3歩で行けない…そうこうしているうちに、父親が練習している様子を見ていて、こう飛べば5台目まで3歩で飛べる、とアドバイスを受け、そのとおりに飛んだところ、すぐに5台目も3歩で飛べるようになった。そして、次は6台目も3歩で…とやっていくうちに、ついに10台目まで全部3歩で飛べるようになり、2秒もタイムを縮めることができ、頑張れば数字として結果が出る、という面白さがわかったそうです。
このあと、自分がどのスポーツをやっていこうか、と悩んだとき、スケートにした理由は、個人種目で自分が頑張れば、頑張るだけ、記録として残ること、また、スケートは寒くて厳しいスポーツだけに、夏は球技、冬はスケートのかけもちでスポーツをやっていて、高校進学のときにはスケートを避けて、球技を選んでしまう人が非常に多いということもあり、それほど多くの人がやっていないこと。また、体格的には日本人は負けていても、日本のスケートが世界レベルなのは、技術的に優れていること。だから、努力して頑張っていけば、スケートなら世界のトップになれるかもしれない、という「淡い希望」を持ったそうです。でも、その選択は大正解ですよね。やはり、大勢がやっていることでの一番になるのはちょっとやそっと頑張ってもまず無理ですが、「マイナー」なことなら、頑張り次第では一番になれる可能性があるわけで、目のつけ所が良かったと思います。
そのあと、高校進学して最初はビリだったものの、トップを目指して橋本聖子さんの母校である駒大苫小牧高に入り、練習もつらいとは思うこともなく、一生懸命やっていき、高校3年のときにはジュニア世界選手権の日本代表に選ばれ、1000mで1位。表彰台に立ったとき、両端(2位、3位の選手)は非常に大きな選手で、まるで長野五輪の清水選手状態。こういう経験をもう一度味わいたい、ということで、日本体育大学に進学。1、2年のときは日本のトップチームに選ばれたものの、3年のときは遊んでしまい、トップチームから漏れ、後輩にも抜かれ、その後輩は1992年アルベールビル五輪代表に選ばれ、楠瀬さんは五輪代表漏れ。五輪中継をテレビで見ているとき、後輩を素直に応援することができなかったそうです。
で、なんとかオリンピックに出たい、という強い気持ちを持って、佐田建設に入社。シーズン前には体脂肪率も入社時の22%から13%に落ち、スクワットもバーベルを持っての屈伸を80kgくらいから130kgまでできるようになり、また、太股周りが53cmから5cm太くなり58cmに。これだけ数字が伸びると、シーズンに入り、スタートラインに立ったときの気持ちは昨年とは大違い。すごく自信を持つことができたそうです。
橋本聖子さんの日本選手権10連覇を楠瀬さんが阻止して初優勝。そして、念願のアルベールビル五輪代表に選ばれました。しかし、五輪が始まり、大勢の方の祝電を選手村で見ているうちに、メダル、メダル、頑張れ、頑張れ…そういう内容ばかりで、具合が悪くなり、吐き気がしたそうです。そして、どんどん精神的にまいってきて、失敗してしまう、どうしよう…と悪いことばかり考えるようになってしまったそうです。
で、最初に男子500mがあり、堀井選手、清水選手など金メダル間違いなしの周囲の声がありながら、楠瀬さんはスタートのとき、約1万の観客がシーンと静まりかえった状態でみんなスタートする選手に注目している…スタートで震えている選手もいれば、いつもダイナミックなスケーティングをしている選手も足を細かく動かして、いつもの滑りが全くできない状況を目の当たりにしたそうです。
で、ついに自分が滑る日になり、最初の種目は500m。1時間前からウォーミングアップをしているのに、10分前にリンクの上に上がったときには、足もとが寒くなってしまった。スタートラインに立ったときには静止しないといけないのに、ブルブル震えてしまい、1度フライングをとられてしまった。次にフライングすると失格となってしまうため、とにかく手が動かないようにしようと、脇をしめた状態でスタート。スタートしてから自分がどんな走りをしたか、全く覚えていなかった…。1500mも消極的なレースをしてしまい、悔いを残してしまった。得意の1000mもスタートのときはブルブル震えて、フライングを1度してしまい、結果的には3位と0.15秒差の6位。0.15秒差は精神的にしっかりして走った選手とブルブル震えて走った選手との差と受け止めたそうです。
本当は五輪が終わって、スケートを引退するつもりが、この結果でやめるにやめることができなくなり、現役続行。五輪の次の年、W杯で2勝。しかし、これが五輪の舞台ならまたブルブル震えて、こんな結果は出ないだろう。でも、なんとか五輪に出ていい結果を出したい、という強い気持ちを持って、頑張ってきたのですが、長野五輪の前年、スラップスケートの登場で、楠瀬さんもなかなか新しい靴になじむことができず、また、五輪直前のレースでは靴が壊れるアクシデントがあり、思うような結果が出ないまま、五輪本番を迎えることに。
長野五輪では、清水選手が念願の金メダルを獲得。これで日本選手団も勢いに乗り、女子500mも1日に岡崎選手、島崎選手が3、4位につけて、メダル圏内に。楠瀬選手は日本選手では一番悪い順位のため、2日目は日本選手の中では最初に滑ることになり、岡崎選手、島崎選手を勢いづける斬り込み隊長的役割という気持ちで滑ったところ、前の五輪でスタートラインに立ったときの震えはなく、ほとんどの日本人が自分に対しての声援で勇気づけられ、それが背中を押してくれた感じで走り、ゴールした結果は自己新記録。私もそのとき生で見ていましたが、順位はともかく、大舞台、オリンピックで自己記録を出すことができるなんて、すごい精神力だな、と思いました。我々には想像もつかないいろんな苦しみ、挫折を味わい、そしてメダルこそ獲得はできなかったものの、「悔いはなかった」という話どおり、自分の力を出し切った、すがすがしさがありました。ほんとにそういう選手を見ると素敵ですし、非常に勇気づけられます。そういう選手の話を聞くだけで感動モノです。
奇しくも、今日の北海道新聞で、釧路でスケート五輪代表の白幡圭史さんと三宮恵利子さんが特別講師となって強化合宿をしている、という記事を見かけました。三宮さんは今年のソルトレークシティ五輪で、期待されながらも自分の力を出し切ることができず、五輪後に引退。いったんはスケート界から身を引くつもりだったのですが、こういう苦い経験をほかの選手に味わせたくない、という気持ちで、自分のできることをやっていこうと、こういう合宿の講師などを精力的にしています。
改めて思うこととして、スポーツは結果がすべての世界。しかし、やっている本人にとっては、いろんな努力をしているわけで、結果がでないことに対しては、当事者でない立場の者にとっては、何も言う資格はないんですよね。結果がでなかった理由は本人が一番よくわかっていること。オリンピックの場合、日本は特にメダル、メダルばかり注目しているけど、スポーツはオリンピックだけがすべてじゃないんですね。もちろん、世界中が注目している大会で一番になれば最高ですが、決してそれだけじゃない。また、五輪が終わっても、その選手の人生はこれからまだまだ先があるわけで、五輪はあくまで人生にとっては「通過点」にしか過ぎないわけです。
楠瀬さんはスポーツを通じていろんな人を指導して、その人ができたときに味わう「感動」をいっしょに味わうことができることに対して、非常に喜びをもっているとのこと。
スポーツだけでなく、自分がやってきたことで、人に感動を与えることができたときって、ほんとに「自分がやってきたことは無駄じゃなかった」と思えるし、これからどんどん頑張っていこう、と逆に元気を与えてくれる感じですよね。
自分は小さい頃からスポーツは何でも好きで、今では野球、サッカー、スキージャンプなど観戦・応援したり、そして自分自身でもマラソンに参加しているので、スポーツ無しでは自分の人生もあり得ない状況になってます。ほんとに、自分のやってきていることが、少しでもいろんな人の力になっていければ…と、思う今日この頃です。
あとで、調べたんですけど、楠瀬さんは私と同じ生まれ年(昭和44年生)でした(^^)。(2002.9.25提供)


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